今年、芸歴25周年を迎え、6月には25周年記念公演「思えばトーク♪で来たもんだ」を大成功させたマルチタレントの津波信一さん。「信ちゃん」の愛称で知られ、映画やドラマ、舞台での役者活動をはじめ、タレントとして、また、演劇集団「TEAM SPOT JUMBLE(チームスポットジャンブル、以下TSJ)」の座長として多彩な活躍ぶりを発揮しています。
県民にこよなく愛される信ちゃんの足跡をたどりながら、楽しく&熱くゆんたくひんたく。もちろん、あの“お笑いポーポー”や“笑築過激団”の話もたくさん伺うことができました!“せっし、ぼーん”
1.笑築過激団~お笑いポーポーまで
―まずは芸能活動25周年おめでとうございます。記念公演も大成功でしたね。私も拝見しましたが、もうホント楽しかったです!
津波:ありがとうございます。25周年記念公演は本当に多くの方に来ていただき、うれしかったしありがたかったですね。とにかくみなさんに純粋に“楽しんでもらおう”という想いで企画したので、楽しんでいただけて良かった!
―ところで、信ちゃんはどんなお子さんだったんですか?
津波:子どもの頃から目立ちたがり屋で、笑わさ~でしたね。小学校からずっと野球一筋だったんだけど、中学時代に野球を辞めたのをきっかけに、姉の影響で星新一のショートショートとか、筒井康隆を読むようになって。
どんでん返しのストーリーに夢中になりましたね。高校に進学してから、脚本というか台本というか、そんなものを書いて文化祭で上演してみたり。今思えば、現在の活動のルーツがそのとき生まれていたのかな。
◎3歳の頃、沖縄国際海洋博覧会で祖母と従兄弟と
◎小2の頃、新原ビーチで海水浴
―芸能活動をはじめたきっかけは?
津波:きっかけは高校の頃、笑築過激団(1983年コザで結成。元りんけんバンドメインボーカル、現県議会議員の玉城満が座長を務める演劇集団)が沖映通りの角のところにあった小劇場「沖縄ジァンジァン」で「コント物産展」を上演していて、それがおもしろくてしょっちゅう観に行ってたんです。(※参考:おきなわお笑い今昔マップ)
笑築ってお笑いがメインだと思ってる人が多いんだけど、元々演劇集団だから、見ごたえがあって。あと、今でこそ普通にみんなやってるけど、ウチナーグチとか沖縄のネタを演劇やお笑いに落とし込むのは、笑築がはしりだったんじゃないかな。
まぁ、とにかく好きで、追っかけしてるみたいな感じでした。そしたら一度、街で偶然、明さん(笑築過激団団長・普久原明さん)を見かけて、おお~!って感激して後を付いて行ったことがある(笑)。それぐらい憧れの存在なのに、はじかさ~して声はかけられんかった。もう、ストーカーふーじー。しに危ない(苦笑)。
―そんなに好きだなんて、なんかカワイイ(笑)。で、笑築に入団ですか?
津波:そう。今思い出したらで~じ恥ずかしい(照)。ただ役者になりたい、芝居がしたい、と笑築の門を叩いたわけ。実はその頃、母親と叔父さんがカナダへの留学の費用を用意してくれていたんだけど、僕は笑築で芝居がしたくて、結局、カナダじゃなくコザへ留学(笑)。
―え?カナダ留学を蹴ったんですか? 親御さんは大丈夫でしたか?
津波:大丈夫じゃないです(汗)。親不孝をしたもんだから、実家に居場所がなくなって、仕方がないから座長の実家の2階にある笑築の事務所の一角に置いてもらって、寝泊まりしてました。
たーじーさん(座長の奥様、笑築過激団マネージャーの玉城たずこさん)のお手伝いや雑用とかなんでもやりましたよ。その頃、笑築は人気絶頂で、ジァンジァンの小さな劇場に立ち見で300人集まるような状態。チケット管理やBGMの指示、裏方の雑用までいろいろやって本当に忙しかった~。
◎笑築過激団の貧しい下積み時代
◎笑築過激団のメンバーと
―笑築といえば、個性豊かなメンバー揃い。どんな影響を受けましたか?
津波:僕は佐敷で生まれ育った“いなかのプレスリー”。人を笑わせるのが好きで、地元ではちょっとした人気者だったけど、笑築に入って自分がいかに井の中の蛙かわかった。
座長をはじめ、団長の普久原明さん、新垣正弘さん、渡嘉敷三男さんや金城正さん。ほとんど同世代で芸歴は1年先輩の川満しぇんしぇ~こと川満聡、ゆうりきや~、泉&やよいとか。もう、ホントにおもしろくて芸達者で、野球に例えたらみんなが4番バッターですよ。特に川満聡には強烈な刺激を受けました。ゆうりきや~、泉&やよいがコンビを組んでいたので、お互いにピンだった僕と川満聡がコンビみたいになって。毎日互いに競争、切磋琢磨しながらがんばってましたね。そのうち、芝居の方でも少しずつ役をもらえるようになると、本当にうれしかったな~。
◎宮古なまりの強烈なキャラで人気の川満しぇんしぇ~こと川満聡と
◎玉城満座長が脚本・演出を手掛けた沖縄芝居「飛び安里」にも出演
―そしてあの、伝説のTV番組がスタート。観てないと学校や会社で話題についていけないぐらい人気でした。
津波:「お笑いポーポー」は月曜から木曜の深夜の帯で、わずか10分間しか放映されないのに視聴率がすごくて、本当に多くの県民が観てましたね。当時、ある中学生の父母から、「夜遊びばかりしていた息子がお笑いポーポーを見るために必ず家に帰ってくるようになった、本当にありがとう」って感謝の手紙が来たぐらい。「でも、できればもう少し早い時間からやってくれたらありがたい」って(笑)。
その後は「で~じお笑いポーポー」として、金曜の深夜に30分枠で放映されるようになりましたね。
◎個性豊か、売れっ子揃いの笑築過激団
◎TV人気番組「お笑いポーポー」は当時の社会現象にもなった
―“せっし、ぼ~ん”が口癖のポーポー講座のキャサリン、フーチバー&ゴーヤー親方、ゆうりきや~のウチナーンチュ発見会話、ハイタイカマド体操・・・強烈なキャラが満載でした。
津波:座長は舞台やTVで取り上げるコントについて、事前にきっちりネタ出しをさせるんですね。それでよければ採用。悪ければ没になる。実は裏では結構ガチでみんな頑張って考えていましたよ。
僕?そりゃあ努力しましたよ。2軍から1軍に抜擢されるにはヒットとかファインプレーとかいいとこ見せないとダメでしょ?素晴らしいライバルがたくさんいたから、追いつきたくて必死で頑張れたんだと思いますね。
―そして1995年には笑築を退団。独立に不安はありませんでしたか?
津波:19~25歳まで本当にハングリーでした。笑築に籍を置きながら、沖縄JOHOのライターをやったり、川満聡といっしょに沖縄芝居の大道具として、あの真喜志康忠さんの舞台で桜を降らせるお手伝いをしたり、オペラの裏方をやったり。
そのうち、沖縄復帰20周年(1992)の頃になると、ウチナーグチにスポットが当たるようになり、お笑いポーポーはさらに盛り上がりました。スタジオを飛び出してロケをしたり、座長と出向いてスポンサー確保の営業をしたり。そのときの経験が今、すごく生きています。
その頃は、お笑いポーポーがすごい人気で、このまま笑築にいたら食べていけるし絶対にラクだと思ったけど、誰にも頼れない世界で自分に新しい免疫をつけたい思いが湧き上がっていました。一番大きかったのは、川満聡の影響かな。当時、飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍していた川満が自分のベースである宮古を武器にして、笑築を辞めて独立。どんどん輝いていくのを見てうらやましかった。だから僕も挑戦することにしたんです。
2.独立~ディスカバー佐敷時代
―笑築を辞めてから、どんな活動をしたんですか?
津波:僕も自分のベースを見つけたくて地元の佐敷に戻り、地元の青年会連合会の立ち上げメンバーとして、青年会会長も務めました。その頃は先行きが不安で、「青年失業家」って名刺を配っていたぐらい。でもいつも思うんだけど、大変なときに誰かが声をかけてくれたり何かチャンスが巡ってくる。僕は本当に運がいいんです。
佐敷で地域と関わる中で、シュガーホールをもっと地元でも活用しようということになり、1998年に地域のみなさんといっしょに佐敷町民劇団(現・南城市佐敷。当時はまだ佐敷町)「賞味期限」を立ち上げました。映画や舞台に出演したり、ラジオのパーソナリティーを務めたり、活動の幅も広がりましたね。
◎1999年には映画「ナビィの恋」でヒロイン西田尚美さんの幼なじみ役を好演
―地元、佐敷から得たものがたくさんあったんですね。
津波:昔は何もない佐敷がいやで飛び出したけれど、やっぱり自然の成り行きというか、心から落ち着ける場所だと気がついた。普段の生活や日常におもしろいネタがたくさんあって、地域のみなさんと劇団を作って本当に良かったし、発見がいっぱいあった。
自分の中の佐敷愛にも目覚めたんです。佐敷のおもしろいネタをラジオや結婚式の司会で話すことで、みんなが喜んでくれて、ファンも増えました。区長のキャラも、僕の出身・新里区の青年会で草刈りをしているときに、「昔、で~じなまってる区長がいておもしろかった」という話を聞いて生まれたんですよ。
3.演劇集団「TEAM SPOT JUMBLE(TSJ)」について
―今年、TSJは結成10年目の節目だとか。おめでとうございます!
今、思うことは?1人ではなく、チームでやることの意義、強みとは?
津波:ありがとうございます。おかげさまで10年目。でも、僕は現状とか今の自分に満足してないんです。いつも「もっと行けるだろう」って思う。だからずっと区長だけでもダメだし、劇団だけでもダメで、いろいろなものに挑戦したい。
TSJに対しても考えることは同じで、劇団として活躍するとともに、メンバー1人ひとりが活躍できることが理想。1人でできることには限界がありますが、チームにするとたくさんの可能性が広がる。柔道で言うと個人戦も団体戦も出たいということ。よくばりですかね?(笑)
―TSJの運営、舞台づくりでこだわっていることは?
津波:オリジナルの舞台、そして本公演は新作にこだわります。だから作り上げて稽古するにも時間がかかるけど、そこは妥協しません。沖縄発の演劇として、逆に県外でカバーされるぐらいになりたいんです。
舞台のテーマは何でもあり。方言や沖縄色は特に意識はしていなけど、メンバーとの対比を出すために、僕は沖縄なまりを出したりしている。 TSJではメンバー全員にネタ出しのプレゼンをさせるんですよ。笑築過激団で座長がやっていたことを、今は僕がやってます(笑)。
とにかくもう100とか200とかアイディアを出させる。この一見ムダに見えるようなことが後々生きてくるんです。あらゆる可能性を探る訓練というかね。今は予算がなくてできないけど、今後できるようになるかもしれない。実際、そうやって生きたアイディアがたくさんあるし。やる気がある人の方が一生懸命やってくれる。僕は手を挙げる人にチャンスをあげたいと思うんです。
―TSJ 今後の展望は?
津波:僕はずっと沖縄でスターを輩出したいって思っています。この仕事で食っていける、みんなが憧れる存在。そして、いずれは県外でも活躍してもらえたらいい。だからチーム内、チーム外メンバーとのユニットもいいと思う。やりたいことはプレゼンして、それを通ればなんでもあり、がTSJルール。沖縄では市場が小さいから、マルチでないとね。
―近年、沖縄のお笑いがとても盛り上がっていますよね。この状況をどう見ていますか?また、信ちゃんが考える「沖縄のお笑い」とは?
津波:よしもと、FEC、オリジン、エンターサポート、他にもいろいろあって、事務所を超えて互いに仲良くやるのもいいと思う。芸人やタレントの数が圧倒的に増えて、裾野が広がっている今、お笑いはすごくやりやすくなってるんじゃないかな。でもその分、厳しいことを言うようだけど、勘違いしてる人もいるように見える。
お笑いは栄養素のビタミンみたいに、ABCとかいろいろ種類があって活性化するのもいい。でも、舞台の上では本気でやれるか。そこの部分は真剣勝負ができたらいいと思います。
―津波信一としての活動予定、夢について
津波:夢というか、沖縄の人を喜ばせたい、笑わせたいという想いがいつもあります。死んだときに「信ちゃんはまじめにフラーだったね」と言われたらいいんじゃない?(笑)
TSJ劇団員×津波信一 一問一答!
TSJメンバーは信ちゃんのことをどう思っているのか?「信ちゃんに聞いてみたいこと」「信ちゃんのキャッチフレーズをひとことで表現!」「信ちゃんの尊敬できる部分、直して欲しい部分(笑)」をメンバーが選んで質問&表現。座長とメンバーのユーモアと愛情あふれるやりとりに注目!
信ちゃんに聞いてみたいことは?
島袋寛之
いままでの芸能生活で忘れられない出来事(瞬間)は何ですか?
忘れられない出来事や瞬間はたくさんありすぎて選べません。 格好つけて言うとそういう瞬間を味わいたいからこの仕事を続けていけるのかもしれません。
与那嶺圭一
仕事やプライベートなどで常に意識している事はありますか?
常におもしろいものはないかな?と考えてるくらいでしょうか。 車に乗っていても自然と面白い看板を探していたり、人との会話でもおもしろい話があればメモしたりするのが身に付いています。
村山靖
ありきたりかもしれないですが、芸能の仕事をしてなかったら、どんな仕事をしてました?
何の仕事してたかな? 頑張ってファミリーマート3店舗のオーナー?(笑)
信ちゃんのキャッチフレーズをひとことで表現!
末吉功治
「笑死化担当大臣」 この人さえいれば、落ち込んだ時でも笑顔にしてくれます。
うまいですね。将来は、島ぞうり大臣になって県内をあまくま徘徊予定です。よろしくお願いします。
比嘉恭平
no talk no life 津波 信一
そうですね。本当に『思えばトークで来たもんだ』
ナツコ
寝ても覚めても笑いをあなたに
ひねりがないな。8月いっぱいに再提出!!
信ちゃんの尊敬できる部分、直して欲しい部分(笑)
小渡俊彰
尊敬できる部分――社交的でどんな場も“信ちゃん劇場”にする所!
直して欲しい部分―― 酔いはじめてからの肩パン(笑)
飲み過ぎと呑まれ過ぎに注意します。すみませんm(_ _)m
玉榮日也美
尊敬できる部分――トーク力、ドッカーンと一瞬でお客さんを笑わすおもしろさ。
直して欲しい部分――たまにあるお酒の悪酔い(笑)
飲み過ぎ呑まれ過ぎに気を付けます(汗)
最後に信ちゃんからメンバーへ。
―TSJのみなさんへ、面と向かって言うのは照れ臭いけど伝えたいメッセージなどありますか?
一番長いメンバーは12年の付き合いですから、やはり、信じて付いて来てくれてありがとうございます、でしょうか。あとは、とにかくこの大変な世界で趣味レベルでなくしっかり仕事として確立して行こう、ということかな。
自分のことをできない人は人のこともできないと思うので、早く売れてくださいね(笑)。演劇でも映像でもテレビでもラジオでも何でも良いので、沖縄県民に喜んでもらえる、必要とされる個人、団体を目指して活きましょう。これからもよろしくお願いします!
【津波信一PROFILE】
南城市出身。1991年、笑築過激団に入団し、「コント物産展」やRBC人気TV番組「お笑いポーポー」「でーじお笑いポーポー」で人気を博したのち、95年に退団。フリーとして演劇を軸に活動。佐敷町青年会会長を務め、佐敷町(現・南城市佐敷)の町民劇団「賞味期限」を立ち上げ、座長を務める。映画やドラマ、ラジオパーソナリティー、TV-CMなどマルチに活躍。2006年、演劇集団「TEAM SPOT JUMBLE」を旗揚げ。現在主宰を務める。
【TEAM SPOT JUMBLE PROFILE】
2004年~2005年にかけて、三宅裕司率いる劇団スーパー・エキセントリック・シアターが、沖縄マルチパフォーマーオーディションを開催。そのオーディション合格者で、2006年に劇団を旗揚げ。ダンス・アクション・コメディを盛り込み、『演劇・エンターテインメントの創作と発展』を目指す。
異なるジャンルのメンバーによる個性的な演技に加え、ダンス・アクションなどのスタイリッシュなパフォーマンスが、『TSJ流エンターテインメント』を作り上げている。近年では “国際演劇フェスティバル キジムナーフェスタ”や、“オーストラリア×日本合同制作ミュージカル”にメンバーが出演。アミューズ主催「東京劇団フェス’08 」に沖縄代表として招聘され、初の東京公演も果たした。CMやドラマ、映画などに出演するなど、役者・タレントとしても多岐にわたって精力的に活動している。
◆2017年2月18日(土)・19日(日)沖縄市民小劇場あしびなーにて「TEAM SPOT JUMBLE結成10周年公演」決定!詳しくはオフシャルホームページにて随時公開。www.spot-jumble.com
インタビュー・文 : 普久原晶子
(フリーランスコピーライター)