2016.12.05

「カンカラ三線で平和を願う」〜三線奏者の中学生いんやくりお君と島唄との出会い〜


image02

カンカラ三線を肩に乗せ、手元を見ずに背中で早弾きする少年。そんな演奏姿がいま、地元首里で話題になっています。彼の名はいんやくりおくん(15)。2011年に家族で東京から移住してきた彼は、今では沖縄で活躍するれっきとしたカンカラ三線奏者です。

ポップスから民謡まで幅広くカバーし、自身のミュージックビデオ制作なども手掛けるりおくんと、彼の活躍をいつも側で支える母に音楽やカンカラ三線の魅力についてお話をうかがってみました。

 

「島唄」に衝撃を受け、三線の虜に

image08

ー三線を始めたきっかけはなんでしょうか?

りお:きっかけは小学3年の春休みです。初めて沖縄に来て、国際通りを歩いていたとき、お店のBGMで「島唄」が流れていて、雷を打たれたみたいに衝撃を受けたんです。それまで一切三線の音色は聞いたことがなくて。その後、別のお店で三線を弾いているお兄さんから借りて触らせてもらいました。そこでまたドンっ!って雷を打たれました。「うぉー! こりゃ三線を始めるしかない」って(笑)。

:4年生の誕生日に三線をプレゼントしたけど、立派すぎてどうしていいかわからないまま飾っていたんだよね。その後、春休みになってむら咲むらでカンカラ三線を作ったんです。これなら気軽に弾けるので、そこから一気にのめり込むようになりました。

りお:調弦すら何も分からなかったけど、耳コピ(耳で聴いて覚える)でまねしながら弾いて、20曲ぐらい覚えました。工工四(くんくんしー:三線専用の譜面)はいまだに読めません。

:三線があまりにも好きで、弾けるようになる前から一日中カタツムリみたいに背負って歩いていましたよ(笑)。

DSC02644 (1)11歳(小学校6年生)の時、久高島の岬にて。どこへ行くにも三線をもち歩き弾いていた。

ー今使っているカンカラ三線はいつからですか?

りお:今使っているのが2代目で、小学6年から使っています。カンカラ三線ちゃんって呼んでいます。楽器に名前を付けないので、もらった楽器は頂いた人の名字で呼んでいます(笑)。

:1代目のカンカラ三線には、不思議な思い出があります。たしか6年生の誕生日だったかな。あまりにも三線が好きなので、パーランクー(手持ちの片張り太鼓)三線をプレゼントしようと思って、押し入れに隠していました。夜寝ているときに、「パーランクー三線に夢中になったらカンカラ三線弾かなくなったりして」と考えていたら、急にバチって弦が切れた音がしました。次の日の朝、「三線が壊れる夢をみた!カンカラ三線大丈夫?」ってりおが飛び出してきました。でも、そのときは弦が切れただけでしたが、ちょっと驚きました(笑)。

りお:でもその後、めったに切れない1番上の男弦(ウーヂル)が切れた上に、カラクイが折れて肩掛けストラップも切れた。いきなりしんじゃったみたいになった。三線の先生に言ったら「三線も引っ越しというものがあるんだよ」って。

:不思議で粗末にできないから、今はタコ糸を張り直して床の間に飾っているんですよ。

image09
1代目は宮沢和史さんのサイン入り。2013年5月25日付。

ーカンカラ三線を使っている理由は何ですか?

りお:気軽に弾けて持ち運べるのが一番大きな理由です。カンカラ三線を持って歩いていると、いろんな人から弾いてと頼まれるんです。おじーおばーにお願いされて弾くと驚いて、涙ぐむ人もいました。昔はカンカラ三線しかない時代なので、この音色が体に染み込んでいるのだと思います。音楽って本当に人を勇気づけることができるんだなって実感しました。そこから音楽の道に進みたいと思うようになりました。将来は戦後から歴史のあるカンカラ三線で平和の曲をつくりたいです。

:もともと心臓と肺が弱く、歌を歌うと肺が鍛えられるので、初めは療育の気持ちで三線を始めさせました。友達も増えるしいいかなと思ったんです。桜坂でカンカラ三線を弾いたときに、アメリカ人の男性がりおの演奏を見て、ずっと泣いていたこともありました。日本語は全く話せない、意味も分からないはずなのに感動してくれて。その方は「いつか一緒に沖縄レゲエをつくろう」って言ってくれました。音楽は言葉を超えるんだな、って思いました。

りお:レゲエってなにって思ったけど(笑)。

:その後、その方は特注のシガーボックスギター(米国版カンカラ三線。葉巻の箱で作られたギター)をニューヨークで作ってお土産として持ってきてくれました。これも縁ですね。これまでは部活の延長のような気持ちで応援してはいたんですけど、こういうこともあり、最近家族でいろいろ話し合って、りおをしっかりサポートしていくことに決めました。

 

カンカラ三線を根っこに音楽性を広げていきたい

image01

ー普段はどんな音楽活動をしていますか?

:始めて1年ぐらいは好き勝手やっていました。道端で弾いているときに先生についたほうが良いよって言われたのもあって、5年生の終わりに先生に師事することにしました。先生は工工四を見せて教えるつもりで用意していました。だけど最初に、先生が簡単な曲を弾いていたら、りおがそれに合わせて一緒に弾いたんです。どこまで追いかけてくるんだろうと思って次から次へと弾いていたら、気付けばなんと1時間半が過ぎていたんです。それから、りおに合わせて工工四を使わずに教えてくださることになりました。

りお:今は他の楽器も習っています。ギターは今年3月から習い始めました。DTM(パソコン上で音楽を制作すること)は8月からで、ドラムは10月から習っています。今後はベースもやりたいです。


完成したばかりの、自身初となるDTM&MV制作の「赤田首里殿内」

:伸び盛りなのでいろんなものを吸収して、チャンプルーした先にどういった音楽が出てくるのか楽しみです。そういった新しいジャンルをこの子は作りたいみたいなんです。前はカンカラ三線一本でやっていきたいってずっと主張していたんですけど、カンカラ三線は音が細いしこれ一本でやっていくには限界があると思うようになりました。

りお:ライブハウスでも演奏できるようにピックアップマイクをつけました。音を再生するためのループ機材を使って、ギターやコーラス音を入れたりボイスパーカッションでリズムをつけたりして、音を重ねてにぎやかにしました。

:苦肉の策だったんですよ。いろんなパフォーマンスを聞いて勉強していました。それを機に足元の機械が増えていきましたね。自分でバック音源をつくりたいって言いだしたので、DTMを始めました。

りお:ループの限界が分かってきたので、派手に1人でできるならこれしかないなって。最近は自分で音を作れるDTMとかビデオ編集にも力を入れています。全部自分でやりたい。沖縄民謡をアレンジして、現代風ポップスとかロックにしてみたいです。でも、もちろん根っこにはカンカラ三線があります。

image03

ーオリジナル曲も何曲かありますね。作曲はどのようにしているのですか?

りお:曲がおりてきたら作ります。夜中でもパソコンを開いて歌詞を書き留めることはあります。例えば学校に訴えたいことがいくつかあったのでそれについて書きました。「車イス」って曲は、休み時間が短くて友達に会えない悲しみを訴えた曲。「鏡が丘の休み時間」という曲は「休み時間が5分しかないー。オンリー5ミニッツ!」という歌詞。

:そのときはやたらめったら盛り上がっていて、これを歌にして訴えるとか言って一生懸命歌っていました。だけど今は歌わなくなったね。

りお:休み時間が延びて歌わなくなりました(笑)。

:いい曲なのに、願いが通じたから使命を終えたんだよね。

 

演奏する時は観客とひとつになる気持ちで

image10

ーりおくんといえば背面での早弾きというイメージがありますが、いつごろから始めたのですか?

りお:背面弾きを始めたきっかけは、友達から登川誠仁先生が背中で弾いていたよって聞いたことからですね。ぼくもやってみようと思って肩に乗せたら弾けたんです(笑)。

:練習したことないんですよ。やろうかなと思ってやったらすぐにできる。練習が好きじゃないみたいで、練習したらって言っても絶対練習しない。ギターの「ひやみかち節」背面弾きも、音楽喫茶さんで遊んでいたとき、気まぐれで初めてしたときから、完璧にできていた。それ以降、自宅では全然弾いていないのに、ライブ直前に「今日はギターで背面弾きしようかな」て突然言いだしたりするから、いつもハラハラするんですよ。

りお:人と楽しみたい、一緒に盛り上がりたいんです。

ー人前でパフォーマンスすることが好きなんですね。

りお:楽器を始める前は今では考えられないぐらい人前に出て何かをするのが嫌でした。めちゃくちゃ引っ込み思案。学校の文化祭で、目立たない所にいても舞台に出たくなかった。

:それが今では真逆だから面白いよね。

りお:初めて大きな舞台に立ったのは中学1年の2月。コリンザで開催された国際ヒヤミカチ節コンクールに出場したときです。入場して暗いうちは緊張したけど、スポットライトがぱっと明るくなったらスイッチが切り替わった。観客と一体になる気持ちで演奏しました。お客さんが温かかったです。一番最後に肩弾きしたら途中から自分の音が聞こえないぐらいの拍手が沸き起こっていました。

:そのときに特別賞をいただきました。緊張するのは宮沢さんと会うときだけだよね(笑)。

image05

ー東京から移住して5年目、沖縄についてはどう思いますか?

りお:「なんくるないさー」でゆるい雰囲気が好き。友達の友達はみんなともだち。必ずどこでもつながっている。

:東京にも友達がいたし、楽しく暮らしていたけど、なんだろう、こっちが性に合っていました。りおは来た途端にうちなーぐちも勉強したいって言いだしたんです。

りお:うちなーぐちは民謡と琉神マブヤーから学びました。

:私がりおに「沖縄の文化を学んでね」と言ったわけではなく、9歳だった本人が「学びたい」って言いだしたのだから、よっぽど何かを感じ取ったんでしょうね。私は小さいときにひめゆりの本を母に読むように言われていましたし、戦争の遺骨がまだ眠っている土を踏むのは申し訳ないから、安易な気持ちで沖縄に行ってはいけない、と母に教えられてきたんです。

震災があって移住することになり、那覇空港に着いて、沖縄のために何もしてこなかったのにこういうときに逃げてくるなんて、って思ったときに、私はわーって涙があふれて。それがスタートでした。

沖縄に来て本当に島の人たちによくしてもらっています。心も体も沖縄に助けてもらった。りおがカンカラ三線を弾き始めて、素晴らしい方々に出会い育ててもらって、本当に感謝しています。だから、恩返しできる大人になってねって言っています。

 

沖縄のアーティストを支えてきた2人から見るりおくん

りおくんが演奏し始めた時期を知っているお二方。30年近く数々のアーティストを支え続けているアルテ崎山の霜鳥美也子さんと与那城親二さんにお話をうかがってきました。

image07
霜鳥美也子さん(左)、与那城親二さん(右)

ーりおくんの演奏を初めて見たときはどうでしたか?

霜鳥:最初来たときもカンカラ三線だったよね。演奏は超絶技巧なのでビックリしました。誰かに教えてもらったというよりはDNAの中にあるものなのかな。

与那城:自己流で楽しんでいる感じがしますね。先生に師事すると聞いたときは、型にはめられないか心配だったけど、この年で自分を持っているから全然心配いらなかった。今では基本もおさえるようになっている。

image00

霜鳥:肺と心臓が弱いという体のハンデを通り越して感性は誰よりも豊かだし自由。自分よりも体の弱い人にも優しいですよ。私たちに握手するときは普通に握手するんですけど、車椅子の人やお年寄りなど体の弱い人とは両手で握手をするの。誰かに教わったとかではなくて、そいういう優しさを備えいる。

与那城:あれしたらこれしたらって言ったら、思った以上のことをやってくれるから楽しいですよ。最初のうちはいろいろ言えたけど、自分が教える範囲を超えて、だんだん言えなくなってきた(笑)。音に関してはまだこれから。自分がこうしたいと思ったのをすぐにできるので、良いミュージシャンが来るとすぐ吸収する。普通だったらまねするけど、りおくんは自分のものにするんですよ。今後が楽しみです。

 

ーそれでは最後に今後の目標を教えてください。

image04

りお:はい、目標は2つあります。一つは、いつか沖縄中のアーティストの皆さんと「We Are The World」のような曲をみんなで歌いたいです。世界を一つにするような曲をつくりたい。沖縄から世界に発信できるように新しい島唄もつくりたいです。

二つ目は、 世界中を旅して世界の人の心をつなぐ音楽をつくりたい。生きている人も亡くなった人もこれから生まれてくる人も。障害がある人や病気の人、神様、犬、石、木も全て。そして「作詞作曲 世界のみんな」という曲にしたいです。

 


いんやくりお プロフィール】
2001年生まれ。東京出身。2011年3月に沖縄移住。県立鏡が丘特別支援学校中学部3年。第3回国際ヒヤミカチ節コンクール特別賞、琉球民謡協会コンクール新人賞。不整脈や慢性肺疾患などのため、幼少期は入退院を幾度とくりかえす。一方でその感性を活かし本を出版したり、ライブからミュージックビデオ制作まで行なうなど幅広く活動中。彼の公式サイトはこちら

【著書】
自分をえらんで生まれてきたよ (2012年/サンマーク出版)」
神さまがくれたひとすじの道(2015年/サンマーク出版)」

ライター:シマブクロ ショウ(島袋 翔)
ブログ:http://okinote.com/